大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和58年(ワ)73号 判決

原告

谷口一雄

右訴訟代理人弁護士

瀧俊男

被告

宗教法人願成寺

右代表者代表役員

浜田諭稔

右訴訟代理人弁護士

古本英二

主文

一  別紙目録記載の墓碑は原告が所有することを確認する。

二  被告は、原告に対し、金七〇万円及びこれに対する昭和五八年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を原告の、その余を被告の各負担とする。

五  この判決は、第二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  主文第一項と同旨

2  被告は、原告に対し、一〇〇万円及びこれに対する昭和五八年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  仮執行宣言(1項を除く)

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  別紙目録記載の墓碑(以下「本件墓碑」という。)の所有関係

(一) 本件墓碑は、もと、戸主の亡谷口亀太郎(以下「亀太郎」という。)がその祖先の祭祀財産として所有していた。

(二) 亀太郎は明治二六年に死亡してその弟の亡谷口伊三郎(以下「伊三郎」という。)が、次いで、同人が昭和二〇年一月に死亡してその養子の谷口五郎吉(以下「五郎吉」という。)がそれぞれ家督相続をした。

(三) 五郎吉とその養母の亡谷口シチ(伊三郎の妻。以下「シチ」という。)とは、昭和二五年四月、協議で、離縁する(なお、五郎吉は「井戸端」に復氏した。)とともに、五郎吉が前記家督相続により取得していた祖先の祭祀財産の承継者をシチと定めた。

(四) シチは、昭和三四年六月二八日に死亡したが、昭和二五年八月に、祖先の祭祀を主宰すべき者として原告を指定していた。

なお、本件墓碑についての実際のいわゆる墓守りは、伊三郎が大正の初期に神戸から大阪へ転住したため、爾後は、同人の依頼に基づいて、神戸に在住していたその兄であり亀太郎の弟である亡谷口豊吉(以下「豊吉」という。)がなし、同人が昭和一五年に死亡して後は、その孫で家督相続をした原告がなして来ていたものである。

(五) 以上のとおりで、原告は昭和三四年六月二八日に本件墓碑の所有権を取得した。

2  しかるに、被告(以下「被告法人」ということもある。)は、原告が本件墓碑を所有することを争っている。

3  被告の不法行為責任

(一) 浜田諭稔(以下「浜田」という。)は被告法人の代表役員である。

(二) なお、被告法人は神戸市兵庫区松本通二丁目四番一一号所在の願成寺なる寺院(以下、便宜上「被告寺」という。)を有し、浜田は被告寺の住職でもある。

本件墓碑は、別紙目録に記載のとおり、被告寺の境内墓地に存し、その蘭塔の二枚の石扉に陰陽一六弁の菊の紋様が彫られているのが特徴である。

(三) 昭和四六年四月、生長の家(宗教法人になっている。)の教祖(総裁)谷口雅春(以下「雅春」という。)の亡実父谷口音吉の五〇回忌法要が被告寺で営まれた際、浜田は、被告寺の住職として、雅春及びその妻並びに生長の家幹部らに対し、本件墓碑について、雅春の祖先である南朝の忠臣武将谷口泰重の墓である旨、実しやかに虚構の事実(すなわち、本件墓碑は、谷口泰重の墓でもなければ、雅春の祖先の墓でもない、前記のとおり原告の所有にかかるその祖先の墓である。なお、谷口泰重なる人物が実在したか否かも極めて疑わしく、仮に実在したとしても、雅春がその子孫であることの資料は全くない。)を述べた。

(四) その結果、爾来、雅春夫妻ないし生長の家が、雅春の祖先は天皇から「菊の御紋章を下賜された」武将(南朝の忠臣)であるという点を強調しつつ、生長の家編集の「白鳩」と題する機関紙や「生長の家五十年史」と題する刊行物に、本件墓碑の写真付で右に述べられたのと同旨の記事を掲載するとともに、そのような墓であるとして、生長の家の信者を多数動員して本件墓碑に参詣させるなど、その宗教的活動及び政治的活動に本件墓碑を格好の具として利用するところとなった。

(五) そのため、原告は、本件墓碑についての祭祀主宰者としての権利を侵害され、かつ、信教の自由及び政治思想の自由等の人権(人格権)を侵害されて、多大の精神的苦痛を受けた。これを慰謝するに足りる額は一〇〇万円を下回らない。

4  よって、原告は、被告に対し、本件墓碑は原告が所有することの確認を求めるとともに、不法行為に基づく損害の賠償として、一〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和五八年一月三〇日(本訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)、(二)の各事実は認める。

2  同1(三)の内、祖先の祭祀財産の承継者をシチと定めたとする点を除くその余の事実は認める。

3  同1(四)の内、シチが昭和三四年六月二八日に死亡したこと、伊三郎の兄であり亀太郎の弟である豊吉が昭和一五年に死亡し、その家督相続人が孫の原告であること、これらは認めるが、シチが原告主張のような指定をしたことは否認する。

シチは、昭和二五年一一月には再び養子を迎えているところでもあり、同年八月に原告主張のような指定をするはずがない。

4  同1(五)は争う。

5  同3(一)、(二)の各事実は認める。

6  同3(三)の内、虚構の事実であるとする点は争うが、その余の事実は認める。但し、「谷口泰重の墓」と述べたのではなく、「谷口泰重の一族の墓」と述べたものである。

7  同3(四)の内、生長の家編集の出版物に本件墓碑に関する記事が掲載されたことは認める。

8  同3(五)は争う。

三  被告の主張

1  原告が本件墓碑の承継者となったのは、昭和六〇年一〇月一日成立の調停によってであり、それは以前にあっては、本件墓碑に関して原告らは何らの権利を有していなかった。

2  仮にそうではないとしても、浜田が述べたことは、要するに、遡れば谷口泰重に繋がるところの、雅春を含む旧烏原村の「谷口」氏一族(従って、原告も含まれる。)、これに縁のある墓であるというものであって、雅春夫妻及び生長の家も、右趣旨を超えての言動はしていないのであるから、原告の権利は何ら排除、侵害されていない。

しかも、昭和四六年当時、本件墓碑は誰も墓参する者がなくいわば無縁仏と化していたのであり、浜田は、縁のある人に参詣してもらうのがよいと思って前記のとおり述べたものである。

3  そして、浜田が前記のとおり述べたについては、史的文献及び古老の伝承等それ相当の根拠があってのことであり、仮に真実に合致していないとしても、少なくとも、そう信じたことに過失はない。

四  被告の主張に対する認否

右主張は全て争う。

なお、原告と雅春とは、同じく「谷口」氏ではあっても、その家系は全く別である。

原告は、本件墓碑につき、盆、暮、彼岸等にきちんと墓参等をして来ていたのであり、そのことは被告も十分知っていた。

第三  証拠〈省略〉

理由

一別紙目録記載の墓碑(「本件墓碑」)の所有関係

1  請求原因1(一)、(二)の各事実は当事者間に争いがなく、右各事実によれば、もと、戸主の亡谷口亀太郎(「亀太郎」)がその祖先の祭祀財産として所有していた本件墓碑については、同人が明治二六年に死亡したことによりその弟の亡谷口伊三郎(「伊三郎」)が、次いで、同人が昭和二〇年一月に死亡したことによりその養子の谷口五郎吉(「五郎吉」)がそれぞれ家督相続によりその所有権を取得したものというべきである(旧民法財産取得編二九四条二項、現行民法の昭和二二年改正前の旧規定九八七条)。

そして、五郎吉が、昭和二五年四月、その養母(伊三郎の妻)の亡谷口シチ(「シチ」)と協議で離縁して、「井戸端」に復氏したことは当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、右離縁の際、五郎吉とシチとは、協議で、五郎吉が前記家督相続により取得していた祖先の祭祀財産の承継者をシチと定めたことが認められるから、右祭祀財産に含まれる本件墓碑の所有権は、昭和二五年四月にシチが承継取得したというべき(民法八一七条、七六九条一項)ところ、同女が昭和三四年六月二八日に死亡したこと当事者間に争いがない。

2  ここで、原告は、シチが、昭和二五年八月に、祖先の祭祀財産を主宰すべき者として原告を指定していた(従って、右祭祀用の財産というべき本件墓碑の所有権は、シチの右死亡時において原告が承継取得した―民法八九七条一項但書)と主張するものである。右のような指定があったか否かについて次項に検討する。

3  伊三郎の兄であり亀太郎の弟である亡谷口豊吉(「豊吉」)が昭和一五年に死亡し、その家督相続人が孫の原告であることは当事者間に争いがなく、右の争いない事実及び前記1の各事実に、〈証拠〉を併せると、以下のとおり認められる。

(1)  伊三郎は、大正の初期に神戸から大阪へ転住したため、その頃、本件墓碑(別紙目録に記載のとおり神戸市内に存する。)についての爾後のいわゆる墓守りを、既に分家して神戸に在住していた兄の豊吉に頼んだ。なお、亀太郎ないしその跡を継いだ伊三郎にとっての分家としては、豊吉だけであったものである。

豊吉は、右依頼に基づいて、爾後、本件墓碑につき、盆、暮、彼岸等に墓参するなど墓守りをして来て、昭和一五年に死亡した。その間、同人と同居していたその孫(養女とその婿養子との間の子)の原告(大正五年生)も、連れられて墓参することがあり、「うちの先祖の墓だから大事にしてくれ。」と聞かされていた。

(2)  豊吉を家督相続した原告は、戦後神戸に落ち着いた後の昭和二五年八月、大阪の伊三郎方へ消息を尋ねに赴いた。

前記離縁によって、伊三郎ないしシチの子(養子も含めて。)は全くいなくなり、かつ、シチは独り暮らしになっていたのであるが、リウマチで寝ていた同女は、右訪問を受けた際、原告に対して、「伊三郎は昭和二〇年に死亡したし、養子も離縁したので、独りになった。和歌山の妹が面倒をみてやるので来いと言ってくれている。ついては、先祖の祭りごとができないので、あなたに頼む。」と依頼し、原告もこれを了承した。なお、シチは、本件墓碑の存在も知っていた。

(3)  もっとも、その後、シチは、そのまま大阪に留まり、昭和二五年一一月に廣野重治を養子にして昭和二六年三月に協議離縁し、更に、昭和三三年八月に宮本由美子を養子にした。但し、同女は、昭和三四年四月に婚姻して夫の氏を称した。

しかし、前記訪問があった後、シチは原告に対して何の連絡もしなかったし、シチあるいは右重治ないし右由美子が本件墓碑に墓参した形跡はない。そして、原告が、本訴提起後の昭和六〇年に、シチからの祖先の祭祀財産の承継を被告側に争われていたため、右承継を確固たるものにすべく念のため、右由美子を相手方として祭祀承継者指定の調停を申し立てたところ、同年一〇月、「シチ所有の祭祀財産(本件墓碑を含む。)の承継人を原告と指定する。」旨の調停が成立した。

(4)  原告は、前記訪問以後、本件墓碑につき、自己が所有者ないし祭祀主宰者であるとの考えのもとに、墓参もし、昭和三五年には、被告寺から当該墓地の管理費を要求されて五〇〇円支払った。

以上の各事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定の一連の経過に鑑みれば、シチが、昭和二五年八月に、原告に対して「先祖の祭りごとができないので、あなたに頼む。」と言ったのは、少なくとも本件墓碑については、その時点でこれを原告に承継させたものとさえ解することもでき、仮にそうではないにしても、少なくとも、自己の死後祖先の祭祀を主宰すべき者として原告を指定したものであり、その意思は死亡するまで変わるところがなかったものと認めるのが相当である。

4  以上によれば、本件墓碑の所有権は、遅くとも昭和三四年六月二八日に原告が承継取得したものといえる。

二被告代表者尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、被告は、本件第一九回口頭弁論期日(昭和六〇年一一月五日)に前記調停の調書謄本(前掲甲第三二号証)が提出されて後は、原告が本件墓碑を所有することを必ずしも争わないものの、明確に認めている訳ではないし、それまでは争って来たことが認められるので、原告が、本件墓碑を所有することの確認を求める利益を肯定してよい。

結局、原告の右確認を求める請求は理由がある。

三被告の不法行為責任について

1  請求原因3(一)、(二)の各事実(被告法人、被告寺及び浜田の相互関係。被告寺の境内墓地に存する本件墓碑の特徴―蘭塔の石扉に一六弁の菊の紋様が彫られている。)は当事者間に争いがない。

2 前記一のとおりで、本件墓碑については、原告が、昭和三四年に、祖先の祭祀主宰者としてその所有権を承継取得したものであるが、前記のとおり、原告が、昭和三五年に、本件墓碑の墓地の管理費として五〇〇円を被告寺に支払ったところ、前掲乙第三号証によれば、右支払の件は被告寺において記録もしていたと認められるので、この点に被告代表者尋問の結果を併せると、浜田は、後記の昭和四六年当時、本件墓碑につき、原告の右承継の点までは正確には知らなかったにしても、少なくとも、原告ないしこれに極く近い親戚の者がその祖先の祭祀財産として所有するという限度では知っていたと認められるし、〈証拠〉によれば、原告の家系と後記谷口雅春の家系とは、南北朝時代などという昔はともかくとして、例えば明治以降というような現代においては、全く別系列であって、いわゆる親戚関係にはないところ、浜田は右の昭和四六年当時そのことも知っていたと認められ、右各認定を左右する証拠はない。

3  右1、2のとおりであるところ、昭和四六年四月、生長の家(宗教法人となっている。)の教祖(総裁)谷口雅春(「雅春」)の亡実父谷口音吉の五〇回忌法要が被告寺で営まれた際、浜田が、被告寺の住職として、雅春及びその妻並びに生長の家幹部らに対し、本件墓碑について、少なくとも、雅春の祖先である南朝の忠臣武将谷口泰重に関係のある墓である旨述べたことは当事者間に争いがなく、右の争いない事実に、〈証拠〉を併せると、浜田は、右法要の際、被告寺の住職として、右の者らに対し、「今から六〇〇年前に、後醍醐天皇を護ろうとして足利尊氏と戦った武将の一人に、谷口泰重という人がありました。その人が雅春先生の祖先なのです。後醍醐天皇は、谷口泰重の忠臣を喜ばれて、菊の御紋章を用いることを許されたのです。その証拠がこの寺にあります。」と言って、本件墓碑を指し示し、その石扉を開いて前記の菊の紋様を見せたうえ、更に、「楠正成には菊の御紋章の上半分だけ許されたのに、谷口泰重には全部許されたのです。大した武将だったのですね。新田義貞より上位の武将なんです。」と付け加えたこと、そして、その際、本件墓碑の現在の所有者ないし祭祀主宰者ということに関しては全く言及しなかったこと、これらの各事実が認められ、右認定を左右する証拠はない。

4  そして、生長の家編集の刊行物に本件墓碑に関する記事が掲載されたことは当事者間に争いがなく、右の争いない事実に、〈証拠〉を併せると、右3のような説明がなされたがために、雅春夫妻ないし生長の家が、「天皇絶対神論」というような天皇崇拝の思想を基本に置いていることもあって、雅春の祖先は天皇から「菊の御紋章を下賜された」武将(南朝の忠臣谷口泰重)であるという点を強調しつつ、なお、本件墓碑の現在の所有者ないし祭祀主宰者ということに関しては全く言及しないままに、生長の家編集の婦人向月刊紙「白鳩」の昭和四六年七月号及び生長の家編集の「生長の家五十年史」と題する昭和五五年一一月発行の刊行物に、「願成寺墓地の谷口泰重のお墓に刻まれた菊の御紋章」とか「谷口家の墓碑に許された菊の御紋章。谷口家愛国の血脈は、今照々と国の行方を照す」、「十六菊の紋章のある谷口泰重公の墓」との写真説明を付した本件墓碑の前記菊の紋様の写真付で、本件墓碑が雅春の祖先(の谷口泰重)の墓である旨の記事を掲載するとともに、雅春の祖先(の谷口泰重)の墓であるということで、生長の家の信者らを多数動員して本件墓碑に参詣させ、あるいは、生長の家を基盤にして参議院議員に立候補した政治家の選挙運動の旗揚式を本件墓碑前で行うなど、その宗教的活動及び政治的活動に本件墓碑を格好の具として利用するところとなったことが認められ、右認定を左右する証拠はない。

5  ここで、果たして、「南朝の忠臣武将谷口泰重」なる人物が実在したか否か、仮に実在したとして、これが雅春の祖先であるか否か、これらの点はさて措くにしても、〈証拠〉を総合すれば、本件墓碑については、これに刻されている戒名はいずれも江戸時代以降に死亡した者のそれであって、もちろん、南北朝時代の人物であるという「谷口泰重」の名あるいはその戒名らしきものは全く刻されておらず、明治十年代には既に、明治一〇年に亡谷口いさを継いで戸主となった前記の亀太郎(原告の祖父の兄)がその祖先の墓としてこれを所有し祀っていたこと、他方、明治一〇年に亡谷口重兵衛を継いで戸主となった前記の亡谷口音吉(雅春の実父)は、当時、本件墓碑とは全く別の墓を、その祖先の墓として所有し祀っていたこと、なお、右の亡谷口いさと亡谷口重兵衛の時代についてみても、その両家の間はいわゆる親戚関係にはなかったこと、これらの各事実が認められ、右認定を左右する証拠はないところ、右各事実によれば、本件墓碑は、「谷口泰重の墓」ではないこと明らかであるし、「雅春の祖先の墓」ともいえないと認めるのが相当である。

右の後者の点について、被告は、「原告(ないし亀太郎)の家系と雅春(ないし亡谷口音吉)の家系とは遡れば繋がるから、本件墓碑は、原告の祖先の墓である一方、雅春の祖先の墓でもあるといえる。」かのように主張し、被告代表者も同旨の供述をするが、前認定のような事実関係のもとでは、右のように「雅春の祖先の墓でもある」といえるためには、単に「遡れば繋がる」のでは到底足りず、少なくとも、本件墓碑の建立時期以降か、それ以前にしてもそう遠くない時点において「繋がる」という特段の事情がなくてはならない。しかるに、前掲甲第一号証によれば、右建立時期は江戸時代であろうとうかがえるところ、本件全証拠を精査してみても、右特段の事情を認めるに足りる証拠はない。

6(一)  以上1ないし5によれば、浜田が被告法人の役員としての職務を行うにつきなした違法行為により、原告が本件墓碑についての祭祀主宰者としての権利を侵害されたということができる。

右の権利侵害及び違法行為という点について、以下に敷衍する。

(二)  被告は、原告の所有ないし祭祀主宰者としての立場を否定しあるいは排除するような事態ではないから、原告の権利は侵害されていないかのように主張する。

確かに全面的な否定ないし排除ではないものの、しかし、前記4のように、現在の所有者ないし祭祀主宰者ということに関しては全く言及されないままに、専ら、真実に反する「雅春の祖先(の谷口泰重)の墓」という趣旨でもって、公然かつ広汎に利用されたのであってみれば、原告がまさに「自分の家の墓を雅春に取られた」(原告本人の供述)という思いを抱くのも至極当然のことであり、これが原告の祭祀主宰者としての権利の侵害でなくて何であろう。前記主張は到底採用できない。

(三)  前記3によれば、浜田は、雅春夫妻及び生長の家幹部らに対して、本件墓碑につき、少なくとも、雅春の祖先の墓である旨実しやかに説明したものといえ、前記5によれば、右説明は、少なくとも客観的には、真実に反するものといえる。

ところで、被告寺の住職であり被告法人の代表役員である浜田としては、仮に、本件墓碑が右のとおり「雅春の祖先の墓」でもあると信じていたとしても、被告寺の境内墓地に存する本件墓碑につき右のような説明をするにあたっては、他方で、前記2のとおり、少なくとも、原告ないしこれに極く近い親戚の者がその祖先の祭祀財産として所有し、かつ、原告の家系と雅春の家系とが少なくとも現代では全く別系列であって親戚関係にない、ということも知っていたのであるから、少なくとも、単に、「雅春の祖先の墓」とのみ言うのであってはならず、右のような所有者ないし祭祀主宰者の点についてもできる限り正確に言及すべきであったといえる。けだし、そうでなければ、「雅春の祖先の墓」ということのみが独り歩きしてしまい、結局真実の祭祀主宰者の権利が侵害される事態が生ずること、容易に予測できるところであるから。

しかるに、前記3のとおりで、浜田は、所有者ないし祭祀主宰者の点については全く言及しなかったものであり、その注意義務違反は明らかである。

なお、浜田が、仮に、「雅春の祖先の墓」でもあると信じていたとしても、前記のとおり知っていたのであるから、原告の家系と雅春の家系とが、本件墓碑の建立時期以降か、それ以前にしてもそう遠くない時点において繋がる、と考えるのも無理からぬといえるだけの根拠ないし資料を有していたという特段の事情がない限りは、右のように信じたについても過失があるというべきところ、本件全証拠を検討してみても、右特段の事情を認めるに足りる証拠はない。

7  結局、被告は、前記の権利侵害により生じた原告の損害を賠償すべき義務(不法行為責任)があるといえる。

前記4のような事態に照らせば、右権利侵害により原告が精神的苦痛を受けたであろうことは容易に推察でき、原告本人尋問の結果を併せると、原告としては、本件墓碑をいわば雅春に取られてしまったかのような思いさえするなど、右苦痛は多大なものと認められる。なお、被告は、本件墓碑は昭和四六年頃においては無縁仏と化していたかのように主張するが、証人荒木治の証言及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、当時においても、本件墓碑につき、祭祀主宰者として、盆、暮、彼岸あるいは被告寺における会合があった際などに、墓参するなどしていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右苦痛を慰謝するに足りる額は、本件に顕われた諸般の事情を総合考慮すると、七〇万円をもって相当とする。

従って、原告の本件損害賠償請求については、七〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和五八年一月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度では理由があり、その余は理由がないというべきである。

四以上の次第で、原告の本件各請求中、本件墓碑は原告が所有することの確認を求める請求と、七〇万円及びこれに対する昭和五八年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払を求める部分とは理由があるから、これらを認容し、その余の金員請求部分は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官貝阿彌誠)

別紙目録

墓碑

所在 神戸市兵庫区松本通二丁目四番一一号の願成寺境内墓地内の別紙図面の位置

構造 本御影石製の台石、蘭塔(二枚の石扉に陰陽一六弁の菊の紋様あり)及び立体石碑から成る。

別紙図面〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例